どうにかこうにか

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どうにかこうにか


といって、ごまかす、この常套フレーズも、
そろそろ効き目が薄くなっている???と感じる、今日この頃。んタイプか、書き出しの文章を書いてみて、消した。
ちがう、なんか、ちがうのだ。

わたしはブログで「現実と虚構の間を文字で埋めている」と、書いた。
この表現は、わたしのブログを評した、ある方のパクリなのだが、わたしは気に入っている。
ブログ散歩をしてみると、似たようなテーマで、意見や感想が書かれていた。

本人はどうであれ、読んでいて面白ければいいんじゃないか?
あるいは、本人が満足なら、それでいいんじゃないか?
真偽のほどなんて、裁判じゃあるまいし、詰めてみても意味のないこと。
そもそも、実名のfacebookではなhong kong business schoolいのだから、匿名色の強いブログ。

嘘八百を書いて楽しい人は楽しいだろうし、楽しくない人は楽しくない。
リアル日記を読んで、面白い人は面白いだろうし、面白くない人は面白くない。

文字によらず、視覚に訴えるものもある。
写真にも、いろんな表現がある。
リアル実写を追究するもの、現場のナマの臨場感を伝えるもの、
自然美でも、くっきりはっきり系と、霞(かすみ)、靄(もや)のかかったもの系、
イメージ寄りのもの、???いろFoodwise紅酒いろだ。

もちろん、動画、映像になると、視聴覚に訴える。
さらに、水しぶきや、振動、ニオイなども加えられたりすると、より、明確なものが伝わる。
美味しいものや、楽しいもの、???などなど、快楽なら体感もいいが、
痛みを訴えるものだと、受け手側は苦痛だろうなあ???

????と、話が明らかに逸れている。


今朝のわたしは、透明だ。
光りの透け具合について、あるブロガーさんが、とてもうまい表現をしていた。
薄ものをまとっても、品格のある人が着ると絹に見えて、中身の薄い人が着ると、化繊に見えると。
とても素晴らしい表現。
わたしの透けスケスケは、内蔵が見えるか?
小さな金魚の、ぱんぱんに膨らんだお腹みたいか?

薄くベールをかけたり、薄明かりにしたり、そういう工夫、智恵も大事かも知れない。
ほどよい透け感。

人生を愉しむには、いろんな挑戦、試行錯誤が必要だと感じる、今日この頃。

 わたしは、思いやりのカケラもない。

いつも、自分のことで、精一杯だ。

最後列から、ふーふーいって着いていく、オチこぼれ一歩手前の人間は、
自分の目の前や、真横、真後ろにいる、同じ方向目指して頑張っている人たちが、ぽろぽろオチこぼれていく、
そんな風景を見ながらも、足を緩めるわけにはいかない。
手を差し伸べていては、自分も、まっ逆さまに落ちていく。
わたしも、何度も、何度も、崖から落ちそうになり、崖に生えている草を掴んで、ピンチを切り抜け、
ずずっと少しすべり落ちても、谷底への転落を免れる。

こういう状況で、今日まで歩んできているので(ただし、これは心象風景)
自分がいかに、へこたれないか、そればかりに集中して、へこたれている人に手を差し伸べる余裕がない。

へこたれている人を見かけると、自分だってこんなに頑張っているのに、こんなに日が当たらない、
へこたれているアナタと、同じように休んでいる場合ではない。
そういう気持ちになる。
つまり、余裕がないのである。だから、思いやりが生まれない。
思いやって欲しいのは、わたしだ! 
救いの手を差し伸ばしてほしいのは、わたしだ!
と、わたし、わたし、わたし、と、自己主張、自分こそが、かわいそうな人、とばかりに被害者意識が働く。
だから、弱い人に暖かいまなざしを向けられない。
つまり、自分自身が弱いということだ。
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